思うこと
ふっと過去を振り返ります。
私の描いたものや作った曲とか色々ありますが、人を傷つけて平気な人は、やっぱりそれなりの行いを過去にしています。
例えば、お題で描いたものとか、過去に作った曲に対して、欲しいとか楽しみにしてるとか口では言ってましたが、結局はいいねひとつ押さなかったし、まともな感想すら頂いてなかったり。
当時はん?と思ってもスルーしてましたが、それが度重なったとしてもん?って思いながらも気にしないようにしてましたが、結果後にめちゃくちゃ傷つけられました。
振り返ると、あのときにやっぱ気付いてたのは気のせいではなかったのかと。
溜まりたまって耐えて傷つけられてその何かがプツンと切れて私は縁を切ったのだと。
傷つけた人はそれすら気付いてもいないと思います。
だからこそまあいいやと思うだけで平気なのです。
そして気付いてもいないから逆に被害者な立場を主張する。
最近のいじめと似ている点でもあります。
ズタズタにされる前にもっと早くに思いきってれば、傷は浅くて済んだのかもしれません…。
それでも信じていた私がいけなかったのです。
これもいじめのいじめられる側と似ていると思う最近です。
私はいじめられた経験はないです。
卑怯な連中にぐうの音も出ないほど頑張って雲の上の存在にわざとなってましたので(^^;
なのでいじめられてる人と友達になってた過去でした。
苦しんでる姿を見て見ぬふりなんて出来なかったんです。
私と一緒にいる間は手を出せないならばと逆手に取りました。
でも後に大人になったら、その友達は凄くかっこよく大型のバイクを乗りこなす美しい女性になっててびっくりしました。
ああ良かったと思いました。
そう思えば小学生のころって凄い活発だったんだなと。
不登校の女の子と友達になる!とか。
そりゃ学級委員にも選ばれます(^^;
今とは全然違う自分の姿(笑)
今は結構孤独です。真逆。
せめてとコンテストに応募したけど、見事に落選。
それはつまり「死」を意味すると思いました。
うつの頭は極端にしか動きません。
否定はすなわち死なんです。頭の中はそうとしか捉えないのがうつです。
何が障害者支援だ、平気で蹴落としてるではないかと矛盾を感じました。
結局はそこも身体の障害者が重点なんです。
生きる場所があるようでないのがこの世です。
なぜ生きるか。死ぬために生きているんです。
人生はいつ死ぬかだけの話です。
人生の終着点は「死」なのは100%決まってます。
なのでさほど外れた論点ではないと思います。
それでももがき足掻いて生きるのが人生。
何をやったとしても、死ぬ時は丸裸で何ひとつ持っていくことも出来ないのに、それでも無駄に頑張るのが人生です。
たまに何やってんだろ自分…てなります。
傷つけても平気な人は、それなりの行動をやっぱり平気でしているという話からそれました(笑)